コンフリクトしない日々/Days Without Much Confliction

最近コンフリクト(誰かと衝突)することがなくなったと、ふと思った。
なぜ、突然コンフリクトがテーマかというと、数年前にはコンフリクトの最中に、息が詰まりそうに暮らしていたからだ。


Handbook of Intercultural Training
コンフリクトの主な相手は、2種類あった。
一番大きな相手は異文化の相手。2番目の相手は、職種の違う相手だった。コンフリクトというのは、初心者やおっかなびっくり馬鹿丁寧に対応している間には、早々起こらない。むしろ中途半端にかじっている時や、失礼な時、きちんとものごとを整理して説明できない状況などで多々起こる。アメリカやヨーロッパからやってきた理屈っぽくて、英語で喋ることにとても慣れていて、しかも、相手に皮肉や攻撃を交えながら会話をする人々と、数年前はよく衝突していた。


今はどうしてコンフリクトしなくなったのだろう。
理由は正確にはわからない。でも、一つだけ確実なことは、あの頃抱いていた心臓に悪いような、精神に悪いようなそういう、表現できないほどの失望とか、落胆とか、ストレスとかそういったものを今は異文化間で感じない生活に生きているということだ。それは正直、もの凄い安らぎである。


なぜ、そうまでして異文化の人と接し、コンフリクトし、それでもなお分かり合いたいと感じる自分がいるのか?- それについては、もう運命的ライフワークだとしか言いようがない。誰だって生い立ちと自分自身が密接に絡んでいる中で、私は10代で異文化のNYにちょこんと立っていたわけで、その時から異文化の中でもがき始めてしまうことになったのだ。好むと好まざるとに関わらず。


違うものを見聞きし、違うから知らない!と投げ出せたら楽だ。
だけど、自分が異文化の中に放り出されたら、そうはいかない。相手から見て自分が異端なのだから。するとどうしたって、理解されるために相手を知る必要があって、相手の考え方や、表現の仕方、好きなこと、きらいなこと、そのバックグラウンドへと及ぶ。それを理解し、こなしていくのには果てしない年月が必要で、私は長い時間をアメリカとアメリカの社会と、人々と言語に悩まされている。


道の途中には、いろいろなターニングポイントがあった。
何もわからない初心者だった頃、悩みはひとつもなかった。子供だったから余計そうだったのだと思う。子供ながらにストレスを深く味わったのは、言葉がわからなかったことだ。言葉の通じない場所でストレスを味わい、日本に帰ってきては必要以上に喋る自分がいた。何もかもが楽しくて、アメリカやNYのすべてが大好きで仕方なかった10代から、留学時代の21歳。この時のターニングポイントは、もう初心者として通りすがりのツーリストとは見てもらえない苦労に出くわした。ツーリストには人は笑って、いい思い出をくれるけど、暮らすとなると状況は一転する。そこのしきたりを守り、調和を保ち、コミュニティの一員としての振る舞いを期待される。そして、誰も自分を守ってくれる人はいない。それがアメリカで学んだ一番厳しい現実だった。


その後、就職してから出会った異文化は、アメリカを超えてヨーロッパや、アジアに及んだ。アメリカ留学を終え、かなり英語もできるようにはなっていたが、イギリスやニュージーランド、オーストラリア、香港…といった国々の人の話す英語がわからなくて電話でとても困ったことを覚えている。そのたびに「留学してたんでしょ?」とか、「アメリカに住んでいたのに、○○州の△△市ってどこだかわからないの?」と言われるたびに、悲鳴をあげそうになっていた。


色々な訛りにもある程度慣れ、広範囲の外国人と渡り合えるようになってから、コンフリクトが始まった。こちらにも自信がつき、そして生意気盛りになったからからかもしれない。言い負かされっぱなしでいることが嫌で、よく喧嘩をした。その分、疲れていたのもその頃だ。


最近は、異文化の人ともコンフリクトしなくなった。
立場や職種の違う人ともコンフリクトしない。


何が理由って正確にはわからない。けれど、おそらくきちんと体系だって説明ができる人間に少し近づいたのかもしれない。むさぼるように読んできた本や、観た映画や、通った学校や、出会って喧嘩して人間の数だけ、すこしは相手を理解できてきたのかもしれない。そして、またひとつのターニングポイントを曲がって、コンフリクトしなくても分かり合える、そういう土俵に立てる日が近づいたのかもしれない。まだ、道は永遠に続くのだけれど。