時空の旅人/Time Traveller

最近とみに想うテーマがある。時空の旅というテーマだ。


既に何度も書いているように定期的に出張をする。私の場合頻度は大したことがないが、それでも時折、時空間を行き来する生活の中で麻痺していく独特な感覚を感じるようになっている。世界がこれほどまでにも、インターネットや、共通語としての英語、どこかで見慣れたスターバックスコーヒーやタワーレコード、ハイヤットホテルにGAPになっている影響は大きい。どこの都市に移動しても、アジャスト(適応)することすら意識しなくなってきているのだ。もちろん、(あ、ここでは日本じゃないから英語話さなきゃ)とか、(現地時間に時計を変えよう)、(チップあげなくちゃ)、(ここでは自己責任の社会だから意志をはっきりさせて喋ろう)というようなアジャストはもちろんするにしても。


映画「ファイトクラブ」でエドワード・ノートン演じるアメリカ人ビジネスマンの麻痺した生活感覚に妙に共鳴したのを憶えている。飛行機に乗り、狭いシートに収納され、食べたくもない機内食をたべさせられ、隣席の人間と会話をこなし、シートベルト着用サインとか離陸とかのあのポン!という音にいちいちびくっと反応し、到着するとベルトコンベアーに流されるみたいにして歩き始めるあの感覚だ。


以前、テニスプレーヤーが「遠征続きの生活をしてきたので、旅をするライフスタイルがいい」とコメントし、やはり遠征生活をしてきたスポーツ選手と結婚した記事を読んだことがある。個人競技者であればあるほど高いアジャスト能力を求められるであろう。本業の試合そのものに勝ち抜くこと以外に、精神的に実に多くのことを克服しなければならない。その土地の気候、風習、食事、言葉、マナー、社会水準等への瞬時の適応。そして気持ちよく滞在を過ごせるための渡世術とも言えるあらゆるコミュニケーションがとても大事となる。


航空機のパイロット、遠征するスポーツ選手やエンターテイナー、世界をまたに架けるビジネスマンなどの生活は都市から都市への移動が基準。一方、大半の人間の生活はどこかの都市を定住地としてそこでの時間や言葉、見えている風景を毎日見慣れたあたりまえの風景として暮らすものだ。世界中のほとんどの人間が一日は24時間という標準軸に従って生きていて、4時なら4時という時間のコンセプトを周囲の人間がみんな共有している。4時になればカラスが鳴いてあっちの山に帰る時間だとか、だいたいの家でお母さんが夕飯のお買い物に行くころだとか、そういうのが日本の4時のあたりまえな風景だったりするわけで。都市から都市への移動を頻繁にしていると、もう最終的にユニバーサルな概念は案外時計によって示される「時間」しかないような気もしてくる。


旅行会社で都市から都市への移動生活をみっちり身につけたおかげで、移動先でアジャストする能力は鍛えられている。言葉や習慣、時間をアジャストするのもさほどストレスにならない。現に時差ボケはしないし、たいがいの人と会話をこなすこともできる。明日になれば飛行機の時間がきて、またあの「ファイトクラブ」の映画みたいに一連の作業を機内でする。あそこまで与えられたことをするのはナンセンスだから、パソコンで島耕作でも読もう。それにも飽きないようにiPodも持っていこう。そうこうしていればすぐに目的地に到着だ。ちょっと眠い自分をアジャストさせて、現地時刻に体と思考言語を変換させる。それもある種のトレーニングなのかな。


「ミッション・インポッシブル」や「007」のような映画に頻出する国際スパイみたいな生活ですら、トレーニング次第で人間はこなせるようになるものなのだろうなと想像する。それが幸せかどうかの議論はあるにせよ、人は馴染んだライフスタイルを愛するようになるものだ。住めば都というあれだって、結局は慣れ親しんだ住空間へのアジャストメントの話なのだろうし。私の住みやすい空間は、時折時空の旅から得る麻痺感覚と既にセットになっているのは間違いない。